|
2007-10-30 Tue 22:59
まあニュートンとか著名な数学者の生い立ちの羅列かな。面白いけど、何かに欠ける。でも、雑学としてはいいかな。根をつめて読むものではなかった。数学に関わりがあるとか、学者になりたいなーって思っている人は息抜きにいいかも。私としては、この人は、「国家の品格」とかみたいに日本や英語教育とかを語っているほうが似合う気がする。 文章を書くという点では結構卓越していると思う。ボキャブラリーは豊富ですよね…。 |
||
|
|
|
2007-10-29 Mon 13:19
ちょっと古い文献だけど、歴史書だからそんなの関係ねぇ〜(笑)経済学は倫理学とのつながりが深いという切り口で、経済の歴史を語っているのであるが、実に興味深くて、分かりやすい。経済学の話と聞くと、政策だとか方法だとかに固執して、経済学の根底にある問題とか主題というものが無視されがちである。だから必然と古典が読まれなくなって、目先にある利益しかもとめなくなったのではないか。この本は、古典の解説はないが、古典の必要性は概要ではあるが語られているというか、仄めかしている。 ジョン・ケネス・ガルブレイスは、最近なくなってしまったが20世紀最大の経済学者だといえると思う。亡くなったからではないが、また少し流行りだしてきたので、ひとりでに本を手にとってしまった。経済学の本として読むのではなくて、倫理書というか思想書として読むと面白いと思う。 |
||
|
|
|
2007-10-28 Sun 05:08
この本での指摘は興味深かった。主に映画のセリフから、問題提起のインスピレーションがうかんでいるようだ。私の語学力の浅はかさを露呈してくれた本であった。内容は文法的なエッセンスが多いので、文法が苦手な人は、または文法をある程度基本レベル〜実用レベルで使いこなせていないと、つまらない文法書の延長としか捉えられないかもしれない。しかし、ある程度熟知している人にとっては、細かい一語でこんなにも意味が変わってしまうことに打ち震えることができると思う。英語を真剣に勉強する人は、娯楽として読むべきかも。 |
||
|
|
|
2007-10-27 Sat 15:24
私が英語のイディオムや連語に弱いことに気づいたのは、スウェーデンから帰ってきてからだった。使えないのはまだいい。理由は、自慢じゃないけどある程度のterminologyは頭にぶち込んでいるから、それで十二分に補える。 しかし、イディオムを知らないと精読ができないのである。内容は大筋は取れても、細かい意味が取れないので、文章理解が深まらない。 そこで、これを使ってみた。ただ、私の本棚の中にあっただけである。実は、授業で使っていたのだが、ちっとも覚えてなかったので、宝の持ち腐れとなっていた。あらためて、原点に戻ろうと思う。今年中に定着率90%の丸暗記ができるといいなー。 |
||
|
|
|
2007-10-26 Fri 15:44
太宰治の傑作のひとつ。彼の考えが全開に表されている内容。 もともと貴族だったかず子とその母。彼女達は戦後どんどん貧しくなっていく。そして、かず子の弟である直治は、麻薬中毒で貴族であることを憎みながら、庶民の生活に落ちぶれたいと思いながら生きる。そして、その弟の師匠的存在である作家上原。後に、かず子は彼に彼の子供を欲しがり接近する。この本では、4人の美しい「破滅」を映し出そうとする。そして、その破滅することで、初めて新しいものが見えるということを示唆させる。 本の中で、「人間はみな同じだ」という言葉に対して、直治の遺書にこんなくだりがある。 「この言葉は実にわいせつで、不気味で人は互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定され、美貌は汚され、光栄は引きずりおろとされ、いわゆる「世紀の不安」は、この不思議な一語から始まっている」 マルキシズムは、人間の平等を唱えているようだが、労働者が優越感を手に入れられるということから、平等とは程遠いものである。民主主義は、個人の主張を尊重するから、この言葉に反しているといえる。 私はこの「同じ」という言葉がとても気に入らない。スウェーデンから帰ってきたときに、日本の電車に乗って最初に思ったことは、どの人も同じバッグを持って、同じような服装で、同じような髪型をしていて、同じ色の髪をしていることに、嘔吐しそうになった。 これは、完全に凶暴化を失ったライオンのようなもので、人間としての価値がなくなりつつあるのではないのかという危機感に襲われた。学校では、受験勉強のために塾に行って、真の勉強の楽しさを知らずに、ただ大学に行くとか高校に行く、いや…いかなければいけないというような強迫観念みたいなものを押し付けて、生徒は拘束される。社会では、例えば、幼児が人前で大泣きして、なかなか泣き止まないときに、ものすごく叱られる。しかし、その真意には、しつけという前に、自分の羞恥心を隠すことを先行していることが、最近では多く見られるのではないか。恥をかくこと=最悪な出来事。だから、人前で話すことが苦手な日本人は多い。 つまり、自分が思っていること、ためているもの、それは喜怒哀楽なのかもしれないが、それらが上手にput outできないことから、あらゆる問題が生じている。 今の世の中では、「人間はみな同じである」という言葉は、「『同じ』でなければいけない。」と代弁しているのではないか。 それが実は、吾々に見えないプレッシャーを与えているのではないか。 それを感じるのは、私が人と話すとき。 飲み会に行って話す内容といえば、男だったら、車か、女か、仕事の話が相場。少し志が高い人間と飲んで話すと、人生設計の話が出てくる。それは健全に見えるかもしれないが、そうでもない。その会話は、所詮社会の限界の範疇内での未来しか語らない。これは、完全に「同じ」=「正しい」ということが植えつけられている上での言葉にすぎない。だから、よほどの人間でないと、話した気にならないし、自分が生きている意義を感じない。日本にいると、今は自分が社会に反していて、どうして生きているのかということを自問自答をして悲しくなるくらいである。 そのことが直治の遺書に書かれていたような、努力や幸福は否定され、一般論といわれたものと外れた思想を抱くと、嫌悪されるて死にたくなってしまう思想に行き着くのは、ものすごく共感を持った。 しかし、このような平等主義がはびこってしまった今、解決策としてはやはりこの本の主題である美しい「破滅」ではなかろうかと考えた。 かず子は上原との子供を身ごもったときに、「とても幸せになった」といった。上原は女房もいるし、今の思想からしたら不倫だし、倫理的に反するといわれてしまうかもしれないが、彼女の母を失って、これからより貧しくなってよりどころを失った中で、生活においての宝である子供を手に入れたときは、不幸中の幸いではないが、彼女にとっては喜ばしいことなのではないか。貴族から、人の夫にパラサイトするほど成り下がったが、彼女にとっては革命であって、戦争や政治が存在するのは当然なのだということを身をもって教えたと、いえるかもしれない。 太宰は、もともとこのような「破滅」に憧れをもっていたというか、そういう運命なんだと気づいていたらしい。青森の大地主で、他人よりも身分が高いことで、自分は他の家から搾取してなりあがったことから悩んだり、6男坊として生を受けて、父からは見放されたことで、長男のように偽善的な礼儀正しさを振舞わず、自分が思う主観的に正しいことを目指して生きて行こうとした。その結果、この「破滅」が、われわれがいかに偽善者として生きているかを、またわれわれに新しいものを与えてくれると、彼は示唆した。 すげー考えさせられた本。 |
||
|
|
|
2007-10-19 Fri 21:09
この本では、筒井康隆の独断と偏見がたくさん詰まっている。例えば、O・ヘンリーについての説明では、「どうしても原稿用紙10枚未満しかかけなかった作家」というように書いていて、ブラックユーモアがけっこう詰め込まれていて面白い。あと、作家のなり方も興味深い。私は運よければ、作家でご飯が食べれるそうです(笑) |
||
|
|
|
2007-10-15 Mon 03:15
あーこの小説は10分読んで、ばかばかしくなった。女の視点で書かれた官能小説なだけだろう…。展開が大体分かってしまってつまらなかった。最悪…。こういうものが世に現れるから、性の氾濫とかが起こるんだよ、きっと。 |
||
|
|
|
2007-10-13 Sat 03:11
江國 香織が執筆作品の中で最も「危険な」作品と評したもの。 内容は、草子とその母の日常生活から紡がれている。母は自分が好きだった「あのひと」が見つけ出すことを望んで、街になじむことを拒み、すぐに引っ越して、あのとき好きになってしまった「あのひと」との距離感をできるだけ保とうとした。一方、草子はそんな生き方をしている彼女に、歳月がたてばたつほど違和感を持ち始める。というような話。 正直、うすっぺらい内容だかな。どうも江國香織が書くものは女女していて、私にはそぐわない。というか、共感がわかないのだ。じゃあなぜ読んだのかといわれると、単純に新潮文庫の推薦図書の100冊にあったからだという理由しかうかばない。「冷静と情熱のあいだ」を読んだときもそうだ。辻仁成が書いたほうは共感できて面白いと思えたが、江國香織の書いたRossoのほうは、どうしてこんなに体言止めが多くて、回りくどい感情表現をしたり、無駄な情景描写が多いんだろうとつくづく思いながら読んでいた。 今の売れている作家は、意味がない描写が多くて、その描写はただただ字数を増やしているだけだろうっていう人が多い。とても効果的じゃない。しかし、女性が書くものって、そういうものかのかもしれないと最近いろいろ読んで思った。吉本ばななの作品も異様に描写が多い。どうしてここで「コーヒー」の音がででこなきゃいけないの?みたいなね。心情描写に乏しいかな。字で表現するのはどれだけ難しいことなんだかってのを少し思わせてくれた。 だから、この小説で思ったことは、草子の精神は当然で、ただその母が狂っているだけにすぎないのではないかということで結論できてしまう。「どうしてここまで「あのひと」という人間に固執して、こういうものなんだ」という過程や展開がほとんど書かれていないから、売れているとはいえ所詮は通俗小説の一種に数えられるのかな。 |
||
|
|
|
2007-10-10 Wed 18:34
安倍公房の世界的な文学になった作品。高校のとき、「赤い繭」ってのを書いた覚えがある。 内容は、教師である男が、教師の生活に退屈してしまって、休暇をとって、趣味の昆虫採集をしにいく。場所は、砂丘。そして、新種のハエの一種をみつける。しかし、捕まえられなくて、そこに泊まることを選ぶ。そして、そこである老人に出会い、泊めてもらう。しかし、連れて行ってもらった場所は、穴の中で、砂でまみれていた。そして、そこである女性に世話してもらう。次の日に昆虫採集を再開しようとして、はしごを昇ろうとしたが、はしごがなくて、女に問うてみる。すると、黙ってしまい、その類の答えはすべて黙秘した。つまり、砂の部落に閉じ込められたのである。その間、いろいろ脱出する手立てを考えるが、なかなかうまくいかない。すると、その中で女性に対して発情して、欲求不満を晴らしてしまうのである。しかし、そんな間柄になっても、この生活には耐え切れず、脱出を考える。そして、ある日、穴から出られたのだが、底なし砂に填まってしまい、助けてもらう羽目になり、また逆戻りしてしまう。絶望などが渦巻くが、だんだん諦めも出てきたのか、女に対しての情がうまれたのか、結局そこで、ずっと暮らしてしまう。そこで話は終わる。 まあすごい話だった。今の世の中をうまく風刺しているなと思わされた。 |
||
|
|
|
2007-10-05 Fri 22:33
丸谷才一のエッセー本。いろいろなエッセーが詰め込まれている。主に歴史的知識と関連していろんなことを書いている。そして、この本はすべて歴史的仮名遣いで書かれていて、趣深い手腕である。 その素晴らしいエッセーのなかでも面白かったのは、「ラの研究」。山上憶良などの歌で、複数を表す「ら」に注目する。この「ら」には、複数を表すほかに、侮辱や侮蔑を含ませる意味もあるということが重要になると前置きをする。そして、そのことが、怪獣の名前に「〜ラ」と付くのが面白いなという内容。とても語感がよくなる話で、満足だった。こんな話が他にもたくさん。 是非、丸谷才一のエッセーをこれからも読み続けていきたい。 |
||
|
|
|
2007-10-04 Thu 13:44
2006年に北朝鮮がテポドンとノドンを太平洋に向かって発射させたのが問題になって、日本をはじめあらゆる国が震撼した。その経緯をすべて書かれている本。 この本は最初のほうでは、ミサイル発射後の日本とアメリカの動きを細々と書いて、後半は北朝鮮の状況や、安保理や主要国の動向を書いている。しかし、それだけで発展する考えがほとんどないから、あまり面白くはない。まあ世界の核問題や、日本と北朝鮮の関係を知るためには、いいのではなかろうか。 ただ、根をつめて読む本ではない。うーむ。 |
||
|
|
|
2007-10-01 Mon 15:03
映画「SAYURI」の原作。キレイな英語で書かれていて、日本の伝統工芸や情景を表現はとても素晴らしいものだったと思う。日本の「芸者」の美しさを、客観的にみることができた気がした。映画もとても美しいので必見。でも、正直なところを言うと、英語でやるより日本語すべてやったほうがよかった。これは日本人としての欲なんだろうが。 |
||
|
|
|
2007-09-30 Sun 23:22
この内容やばかったですね。映画がヒットするのも納得でした。内容は、薫という女性が浩介という建築士志望の男とであって、結婚にまで至るのだが、薫がアルツハイマー病になって、彼女の中から彼の記憶がなくなっていくのを描く。それがすべて、薫の簡単な日記形式で書かれている。そのあとに、語り手が変わって、今度は浩介が語り役になって、彼女が失踪してからのことを書く。彼女は完全に彼のことを完全にわすれてしまっているのだが、彼らの愛が永遠であることを互いに認識する。ここで話は終わる。 悲しいアンチクライマックス的な内容であるが、精神的にはハッピーエンドでおわっているところが、けっこう文学的で美しかった。現代小説としてはできがいいのではないだろうか。なんといったって、日記調で語られていることで臨場感が増すし、日常的で読者も溶け込みやすい。なんとなく、「電車男」のようなドキドキ感がある。あれは本当に現代の産物をうまく小説化してしまっているが…。 今年読んだ恋愛小説の中でも、ベスト10には入る。 |
||
|
|
|
2007-09-29 Sat 18:49
吉本ばななの小説をはじめて読んだわけだが、「言うほどいい作品か?」って言うのが本音。近代文学が素晴らしいと思う私にとって、現代文学はただ美しいだけで、その言葉の中に、社会情勢やそれに見合った人間の感情の対比が分かりづらかった。確かに読んでいて、女性の感情や、人が亡くなった痛みや苦しみはうまく伝えられているし、同情っていう気持ちで文章が読めるが、そこまでである。考えるっていうところに欠ける気がする。正直、江国香織とかのような一般的にうけそうな大衆小説にすぎないかな…。 |
||
|
|
|
2007-09-28 Fri 00:52
松田聖子が主演の映画にもなった作品…らしい。矢切の川渡しの場所で起こった話。まあこの作品も哀が詰め込まれた恋愛小説。17歳の民子と15歳の政夫の恋愛に、世間の人々や姉嫁が常識や形式や慣習というものを基にして邪魔をする。政夫は結局15になってから市川の中学に通わなければならず、彼女とは離れ離れになる。その間に、民子は姉嫁や政夫の母からたくさんの小言を言われ、結婚を断念し、他の家に嫁いでいく。しかし、彼女の中で潔しとせず、次第に弱っていく。やがて、息を引きってしまう。その知らせをもらった政夫は、早急に家に戻ってみると、母は泣き崩れて、半狂人となって自分自身を責めたてていた。彼は、民子の家に行き墓に向かって初めて、彼女の本当の意味での死を感じ、あからさまに泣き崩れてしまう。 明治時代の恋愛は、周知の通り、慣習的で恋愛で成就するほうがまれなほどであった。女性の不自由さが大いに書き出されている。そして、当時の女性はとても忍耐が強いんだというのがよくわかる。このようなものを読むと、女性の権利はもう少し自由にしてあげたくなるかなって思うものである。 この小説は、確かに面白いほうだとは思うけど、今まで読んできたものよりも純粋文学だった。社会情勢や当時の風潮の描写が少なく、私としては少し物足りなかった。むしろ現代の恋愛小説に近いものを感じる。だから、今の時代にもうけてるのかもしれないが…。 |
||
|
|
|
2007-09-26 Wed 12:58
九州の付属病院でのアメリカ人の捕虜の生体解剖事件について書かれたもの。それを通じて、罪の意識、呵責について考えさせられるものであった。 生体解剖に携わった人間のなかに、勝呂と戸田という同僚同士がいたのだが、二人の態度は対照的だった。勝呂は、生体解剖を断るチャンスはあったにもかかわらず、煮えきれない返事をしてしまったがために、実際に生体解剖の場所に現れると、自分自身に大きな罪があるんだという自責の念を持ってしまう。 一方、戸田はこれは「自分は悪くないんだ。怖いのは社会からの罰だけだ」と、少年時代から悪いことをしているという感覚がない人間であるんだということを回想し、この解剖に関しても無感動とはいかないまでも、そこまで大きな自責をもっていなかった。悪いのはすべて、このように誰でも死んでしまう時代である社会背景がいけないんだといいだげにいた。 自責の念というのは、どこから始まって、どこで終わるかなんて決まっていなければ、セオリーもない。自分の裁量に任される世界だと思う。勝呂は、その裁量について、間違ってしまった人間で、この先ずっと自分を責めて生きる。だから、病院で変人扱いされてしまう反面、悲しい過去を背負いながら生きていかないという辛辣な現実が待っている道を辿っているのである。しかし、「間違っている」っていうのは、社会的な視点からみたからであり、精神的には決して間違っているわけではないと思う。 ボルヘスは、「広島・長崎に落とされた原子爆弾で死んだ人と病気で死んだ人は、死んだ時間が違うだけでなんの変わりもない」というようなことを言っていた。これは、社会的な目を考えたら、元防衛大臣の久間さんのように非難されてしまうが、精神的観点からしたら決して間違っていない。だから、この裁量も人間の見方によっては、事件もすべて変わってしまうことがよく分かった。 これは、今の裁判の判決も同じようなことがいえる。無罪だった事件がいきなり有罪になってしまう逆転判決は、最近多く見られる。はっきり言って、こんな風に全く正反対になるのは少しおかしいようにも見えるが、やはりそれはどちらかの判決のときに情が入っていて、objectiveな判断がなされてなかった結果かと思う。 医者や法曹家はこういう裁量について重く考えて仕事をしてもらいたいと願うまでだ。そのようなことをこの本から感じた。 |
||
|
|
|
2007-09-25 Tue 01:25
ウィータの少年文学の傑作。日本ではアニメにもなった。私はこの作品に少しだけなじみがあった。というか、日本の茶の間ではなじみがあると思う。それは、いつも「最終回のダイジェスト集」みたいなもので、必ずこの物語の最終回は上位にランクされるからである。だから、私が思うに内容は知らないが、最終回だけは知っているという人間は多いのではなかろうか。そして、私はそんな人間の一人だったわけで、せっかく推薦図書を漁っていたわけで、読んでみた。少年じゃないけどさ。 この内容には、今の世の中で、忘れられがちなテーゼがたくさん詰め込まれていた。私がいつも思うことであるが、「お金でしか幸せの価値をはかることができない人間は、精神的に貧しい」というようなことが、この内容すべてのテーマになっているのではないか。 実際に、乞食に近い生活をしていた少年ネロとパトラシエは、美しい心を持った人間だったが、お金がないと言うだけで、アロアの父は、アロアを彼に近づけようとはしなかった。しかし、彼がなくした大金を、ネロとパトラシエは見つけて届けてもらったという事実を知って初めて、彼の行為が愚かな、そしてただ意固地になっていて、プライドが優先されていた行動であったことに気づき、我に返ったのである。 お金で、人間の権威や欲望は計ることはできるが、人の心のよりあしは不可能である。現代を生きる人間は、特に日本とアメリカの人々は、この精神を忘れているように思える。アメリカなんて、頭がいい=金持ちという方程式ができているほどである。若者が平気で、「頭がいいのにどうしてお金がないの?それは頭が悪いことと比例する」というので、恐ろしい時代である。そして、日に日に人間の心は、我々がもともともっている精神の脆弱性をつつかれているのである。 その点、ヨーロッパの人間は比較的穏やかである。アメリカの金持ちとヨーロッパの金持ちは、まったくといっていいほど精神性が異なることが多い。私が出会ったドイツの銀行の御曹司は、私がスウェーデンを去る前日まで、自分が御曹司だったことを明かさなかった。その謙虚さに私は脱帽だった。自分の金もちっぷりを誇示しないところに、アメリカ人の金持ちよりも気品があって好きだし、この「フランダースの犬」のような内容が、幼少時代から植えつけられているんじゃないかと思う。 教育にいい作品ですね。 |
||
|
|
|
2007-09-24 Mon 00:23
彼の恋愛作品の第3部目の「愛と死」。「お目出度き人」と「友情」があって、この作品があるというくらいである。そして、これが自伝的小説だというところがまたすごい。こんな奇跡に近い恋愛をしている(してないかもしれないが)作者武者小路実篤はとても運の良い男である。しかし、内容は哀愁漂うものばかり。「悲愛」というべきか。「愛と死」では、愛の悲しみが100%こめられて吾々にメッセージを送っている。 内容は、村岡という男が、その友人である野々村の妹である夏子に恋をしてしまうというのが始まり。キッカケは、謎の余興のとき。村岡は芸がないので、余興をしたくないと拒んで、そのかわりに夏子が宙返りを披露してその場を拍手喝采にしたことで、彼は彼女に対して慈悲の心が生まれ、恋に焦がれてしまう。そして、彼女もだんだんそれに惹かれてきてしまう。2人は結婚の約束をする仲にまでなる。しかし、村岡は巴里に旅行にいくといい、半年の間渡欧を決意する。二人は離れ離れに。しかし、彼らは手紙のやりとりを頻繁に行い、互いの寂しさを紛らわすことに勤しむ。しかし、彼の帰りの船の中で、夏子の急死を聞き、絶望の淵に落とされる。彼は悲しさのあまり泣いて泣いてなきぬく。日本に到着しても彼女に対して悲しみの念を覚え、兄である野々村に気持ちを伝える。しかし、村岡はその悲しみを乗り越えるべく、彼の帰国歓迎会を野々村の家でやることに同意し、悲しみと立ち向かう。このことが、回想的に書かれている。 私はあらゆる恋愛小説を読んできた。特に心に残っているのは、新堂冬樹が書いた「忘れ雪」とか、一斉風靡した「世界の中心で愛を叫ぶ」だとかが思い浮かぶ。どれも傑作といえるものだが、実際にそのような現代の恋愛小説があるのは、この小説があるからなのではないかと思う。それくらいこの小説はインパクトがあると思う…時代が時代だから。この作品は戦時中に発表されたものだから、作者自身にも死別の別れとかが本人になかったにしても、そういう事実に遭遇するには難くなかったのかと思う。このところから、彼の青春文学の味を感じざるをえない。現代の恋愛小説とは、愛の重みが違った。 それは、文章の内容からも見受けられる。特に、村岡が渡航してからの2人の手紙のやりとりから。あんな文面に愛情たっぷりな手紙は見たこともないし、書いたこともない。今は昔と違って、メールはあるし、いつでもどこでも自分達が思うとおりに気持ちを伝えることができてしまう。この利便性が、私達の恋愛感情の希薄性を生んだり、純愛から遠のいてしまう気がする。手紙が来ないかな〜っていう、わくわくする気持ちと来なかったらどうしようという焦燥感が手紙の間にあるから、私は純愛が成就し、あそこまで互いの愛を深められるんだと思った。あそこまで人を愛せることは、私の理想の恋愛像になった。なんて美しいんだろうか。 しかし、順風満帆にいっていたものをすべて壊してしまう無常観を著したところも、注意しなければならない。私達は人生の間挟まれている「恋愛」とは、人生が素晴らしいものになるための、一種の歯車同士の間に生まれる隙間的役割を果たしているものだと思う。作者武者小路実篤も「恋愛はなくてはならないもの」と述べている。しかし、恋愛は所詮人間の人生に組み込まれているものであって、いつかは終わりが来るんだという現実をぶつけている。恋愛のよさと厳しさがうまく調和していて、私は内容的にとても感銘を受けた。 これ以上のことは、別のところで語ることにする。 |
||
|
|
|
2007-09-21 Fri 22:01
小沢征爾の自伝ね。目隠しをして、さらに部屋を暗くしても寸分の狂いもない演奏ができると噂される彼の人生は、日本人にまれに見る偉人たる人生だった。 スクーターでヨーロッパを渡っていくなんて誰が考えるだろうか。しかも、音楽の世界を生きるために。さらに、当時では想像を絶する国際指揮者コンクールに参加するなんて…。そう思う反面、彼は人脈に恵まれていたし、金銭的に恵まれていたのがよくわかる。戦前に生まれた人間で、大学まで出るのはやはり裕福な証拠といえる。私からしたら、できて当たり前だとは言えないが、心の負担は多少軽かったようにも思える。しかし、当時で日本人が音楽の世界で名を馳せるのは至難の業であるから、そういう点では評価できると思う。 私もこれから、世界の荒波に揉まれて、偉人のような人生を送り、自分が納得の行く人生を送っていきたい。私にとって、日本で生きるには時の流れがはやすぎる。そして、すべての人間にマスコミのごとく冷淡な目をし、でっちあげて冷笑されたりり、酷評されたりする世界に見えてならない。日本以外がそうではないとはもちろん言いがたいが、少なくとも個人主義が発達しているヨーロッパで、マスコミのようなextraordinateな視線は感じにくい。孤独を好む私にとっては、最適な場所だ。 そんなヨーロッパを駆け巡った小沢征爾を、少し羨ましく思った。また、この人のようにバイタリティーに満ちた人間になろうと思った。彼が本の中で「体を鍛えることは重要だ」といっていた。私は、彼はボンボンのもやしっこで温室育ちした音楽家だと思っていたので、こんなことをいうなんてと、少しあっけに取られた。少しぐらいのずうずうしさとエネルギーがないと人間には上にはいけない。小沢征爾の生き方に少しだけ感銘を受けた。 |
||
|
|
|
2007-09-20 Thu 00:54
芥川龍之介の初期の作品。「鼻」のほかに、「羅生門」なども同時に「新思潮」に出している。 内容はとっても短い。内供の鼻が天狗の如く長く、弟子におさえてもらわないと食事もままならないくらいにでかい。そのことことに、内供は悩む。そして、周りの目を気にする。しかし、ある日、ある弟子が大陸から鼻が萎縮する術を手に入れて、それを試そうとする。その術とは、鼻を熱湯につけて、そのあとに、踏むというもの。内供は実際にそれを試みた。その結果、誠に彼の鼻は萎縮し、鍵鼻と同等なくらいにまでなった。しかし、長い鼻に見慣れていた周りの人々は、鼻が短くなったのを見て、さらに笑いをこらえられなくなった。この事態に、彼は、「人とはエゴに満ちている」と悟り、結局また鼻はある病気で元に戻り、そのおかげで彼の自尊心は保たれた。 芥川の初期の作品は、宇治拾遺物語などの古典をモチーフにしたものが多い。これは、岩波新書の「芥川龍之介」という本の中で、彼の育ての親(おば)が彼の幼少時代に本を読ませて、聞かせてあげたことで、彼の知性の源は、この読書にあると述べている。だがら初期の作品は結構読みづらいが、趣深くも思える。 そして、この内容の真意である「人間のエゴ(利己主義)」をうまく書いている作品である。 |
||
|
|



















