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雑記

真意を語る上で学位や資格はいらない

先日名大の博士課程を修了したある人とお話ししていました。

結論から言うと、正直退屈でした。ちっとも面白みのない女でした(笑)

まあ今後の人生の方針について話していたのですが、

その中で私がしている仕事の話になり、こんなことを私に言いました。

「博士持っていないのに、どうしてそんなに仕事があって、高給料取りなの?」

いやーね、僕もねそれなりに努力しているんですよ。

しかし、彼女はその理由を推測を始めます。

その女:「ダンディーはTOEICのスコアどれぐらいですか?」

ダンディ:「先月受けてみたら955点でした」

その女:「あーだから高給取りなんだ!道理で学位がなくても……以下省略」

いやー、ここまでくるともうね、笑えてきますね。

一応世間体では、名大の修士を持っていれば十分通用するものだと思っていますが、

自分の世界の中で勉強しすぎると、「自分よりもやっていないのになんで…?」

と思ってしまいがちなんでしょうね。

でも、その精神性しか持っておらず、博士課程修了したというのは

非常に滑稽でした。まあプライドの塊なのでしょうね。


私はこういう人間を創りたくありません。

私の生徒さんには、もっと寛大で、忍耐強くて、

他人ををいたわれる人になってほしいと思っています。

その素地として、そうするための手段として勉強してほしいと思っています。

プライドや意地や肩書をかざすことが必ずしも悪いとは思っていません。

しかし、それらを他人にかざしすぎると、

あたかも「自分のが偉い。自分の方が社会的に価値がある。

お前は本来価値がないのにどうしてそんなにちやほやされるのか!?ふざけんな!」

って呈を作り出す可能性があります。

その配慮ができなければ、やはり社会的に知性を欠いているように思います。

そういう人はもっと社会で成長するべきですよね。

そんな自分の利益のために勉強をしないでほしいです。

もっと純粋に自分の知性を高めるために、過去の自分よりも成長するために、

困っている人に知恵を貸してあげられるために、人々は勉強するべきなんですよね。


私も英語の仕事をするうえで肩書を出さざるを得ないので公表しておりますが、

別に英検一級やTOEICの好スコア(950点以上はそういえると信じている(笑))

を持っているからと言って、「英語ができます」、「英語を教えることができます」

という証明にはならないと私は思っています。

スコアがなくても素晴らしい先生はいますよ。

それを掲げて、「英語ができる」という人ほど、自分の英語に自信がない証拠です。

そんな肩書でものを語らず、生徒には自分の英語で周りを圧倒してくほしい

と思っております。


日本は資格と言うものに毒されていますよね。

それに振り回されないような強靭な学生を作れるように今年も精進します。

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