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「お前もこうすればいい」を考える

「俺はこうやって勉強した。お前もこうやって勉強すればいいんだよ!」

これは一理ありますが、言ってはいけないセリフだと信じています。

私が学部卒業後にアメリカに留学しようとしたときにある先輩から同じように言われて、

非常に困りました。

その先輩はすでにアメリカでの勉強が決まっていて、

とにかく境遇がすべて整っている状況でした。

一方、私は金銭面の事情や今後の将来や家庭の事情を抱えていたために

簡単に決めかねていた状態で、

先輩の言葉は大きなプレッシャーになってしまいました。

もちろん、彼は親切でいってくれたのでしょうが、この言葉に思慮をめぐらせて、

いくつかのエクスキューズを付け加える気遣いは必要だったように思います。

どんなに「がんばれ」「やればできる」などと言われても、おいそれとできないことがあります。

私自身「俺とおんなじやり方をすればいいじゃない」と発言する場合、

実力を秘めている生徒ややる気に満ち溢れている生徒にしか言いません。

何らかの事情で意気消沈していたり、

勉強へ意識が向いていない生徒にこの言葉を贈るのは、

相手に塩を送るようなものですよ。



では、後者の人々にはどういうべきでしょうか。

私は「こういう一例があるんだけどね。」と言った感じで接する努力をします。

やんわり1つの世間話としてとらえてもらおうとするだけで、

生徒のもとにおとずれる義務感が薄れ、

成功談を受け入れてみようという態勢ができ上がってきます。

今のご時世、ナンバーワンよりもオンリーワンを目指している人が多く、

人から頭ごなしに成功談を話されても、「why?」という疑問詞がちらつくだけです。

もちろん、締めるときは締めないといけませんが、

先生が生徒に対して圧政を引いて一つの大きな道を作った後で選択しなさいというのは、

今の時代のニーズには合っていないように思います。

そうではなくて、講師が生徒の可能性を広げて、

彼らの境遇からその可能性を具体化して、それらを示してあげてから、

生徒のライフスタイルにあった道を突っ走らせることを理想と考えるのはどうでしょうか。

本来個人的には圧政するぐらいでいいと思うこともあるのですが、

こればっかりは我々と生徒との価値観の間に大きく乖離がある場合、

生徒との関係がこじれます。


そこで、私は先生自身や知っている体験を話し、

その生徒に追体験させて、先生が体験したものに、

自己流にカスタマイズしていくことを提示したいと思っているわけです。

ウェーバーの社会学から経験科学の価値を知り、

私はこのように考えるようになりました。

ウェーバーは、人間の行為における価値や目的を理解するとき、

その価値や目的が自分と大きく差異を感じれば感じるほど、

それらの追体験は困難になり、私たちはそれらを理解するのが難しくなることを示しています。

さらに結局人間の行為の価値や目的は、

人間による感情移入の度合いと自身が持つ知的解釈をもって、

最大限に理解されるにすぎないといっています。

これは明らかに歴史学や社会学で用いられる「経験科学」的発想で、

正直理解しがたい人もいるでしょうが、

私はこれまで実体験をすべて頭の中で積み換えて、

目の前にある境遇にある問題を解決してきたために、

これは生きていく上で正論じゃないかなと思っています。


「俺はこうやって勉強した。お前もこうやって勉強すればいいんだよ!」


これを、追体験を経た解釈ではなくて、その前提と考えてみてください。

この言葉から、自分の行動はもっとうまく昇華できると思えば、

もっと勉強するやる気が起こるのではないでしょうか。
cancan
Posted bycancan

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