合奏をしなければならないという授業で、
当時楽器ができなかった私にとっては非常に酷な目にあったことを
忘れることができません。
今はドラムとフルートが少々できるので、困ることはないでしょうが、
当時の私にとっては非常にいやーな授業だったのは間違いありません。
そして、特に嫌だったのは、その中で音楽ができる一人の女の子が
「お前ができないと、どうしても合奏が成立さえしないんだ」と
強めに言われたのを記憶しています。
と言うのも、残りの2人は私以上に音楽に興味がない人たちで、
楽器なんてもってのほかで、
楽器ができる女の子はそのなかでもまだまともそうだった私に
無理矢理にでもこなしてほしかったからです。
その楽器ができる女の子はさぞかし非常にストレスがたまったことでしょう。
そして、もちろん理由がない共生を嫌う私は、
ものすごくストレスがたまりました。
(それでも根性出して、オルガンで「キリマンジェロ」を弾けるようにはしましたが(笑))
こういった授業は協調性を養うことを意図して行うのでしょうが、
私はちっとも協調性を育めたなとは思いません。
協調性は制約がある範囲で試されても、発揮できません。
ある目標が明確でなければ、相手も良く知らずに連携を取れない状態で
協調性を重要視したって、何の意味もありません。
それよりも重要なのは、まず個人で何ができるかと言うことを知ることです。
そして無作為に即興で集団をつくらされて何かをしようとするのであれば、
その個人の得手・不得手を理解していかなければなりません。
そのカバーができるかどうかという思いやりが
協調性をはぐくむのであり、自分のことができない者に
協調性という感覚は生まれません。
さて、ここで私が言いたいのは、
勉強する上で、特に受験において、仲間は必要ないというのは言いすぎにしても、
多く仲間を必要とはしないということです。
まず自分で勉強してから、
集団で勉強するというスタートラインに立つことができるのです。
集団授業でやっていける連中は、自分で勉強できる人間が多いでしょう。
個別はそれが苦手な人だったり、またはもっと専門性を突っ込みたい人がとる体制でしょう。
集団で勉強する力も必要なのですが、まずは自分の実力を磨いてください。
勘違いしないでほしいのは、集団授業が良くないとか、
協調性なんて世の中には存在しないんだということではないということ。
社会で生きていく以上、協調性は必要不可欠ですので、
この力はいずれつけていかなければなりません。
ただ、その準備段階でやはり個人を極めるべきだということで、
協調性へのプロセスとして物を述べています。
そして、何よりこれを言いたかったのは、
この時期になると諦めとか傷のなめ合い等が予備校のラウンジで始まるのです。
うちの予備校でもそういうことがやはり起こるので、そうならないためにも個を、
つまり自分とあたえられた時間を大切にしてあげてください。
個は力なり!
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