先日手話に関する英文を読んでいたのですが、
手話ってのは万国共通の道具ではないし、
手話は国によって解釈が異なってジェスチャーも異なるから1言語としてカウントするそうですねー。
点字もそうですよね、フランソワ・ブライユがつくった点字とアメリカでの点字は少々違いますよね。
そう、言葉ってたとえ手話でも点字でも、意味するジェスチャーや内容が異なれば、
その伝える相手に意味が伝わらないんですよね。
同じ言語であってもそうです。日本語なのに方言があるだけでちょっとわかりにくい、
もしくは全然わからないってことがありますものね。
でも、同じ言語で単語も基本的に同じ意味で、
人としてそれらを適切に使える同士の人間でも齟齬は起こるのでしょうか。当然起こります。
文章をみんな同じ意味でとれるのであれば、右翼と左翼はこんなにも対立しないし、
離婚がこんなにも起こらないし、
JUJUや西野カナが創る悲しいラブソングなんて生まれてきませんww
同じ文を読んでも、同じ言語を使っていても分かり合えないことなんて多々あります。
受験でも、僕みたいにストイックに勉強する人間は嫌悪されがちです。
たった一年という限られた、そしてなおかつ親御さんに与えられた貴重な時間と空間なのに、
遊びほうけたり、意味なくやらされている気分で問題を解いているなんて非常にもったいないし、
そんなことできないと思うのが普通だと、少なくとも私は思っています。
でも、そうでない学生や親御さんが本当に増えてきました。
これが資本主義経済を100%でおこなう教育のなれの果てだと思っています。
「頑張っているんだし、お金を払っているのだからいいでしょ!」
っていう意見が聞こえてきそうだし、
実際にそういうことを逆手にとって教育界で堂々としている方は多いです。
だから、私は家庭教師で我が道の納得のいく英語教育からの人間教育を
目指して頑張っているつもりですが、そろそろどうしようかなって考え始めてもいます。
勉強は意味を持たずにただやらされるものではありません。
そして私欲全開で、わがままで自分のやりたいことだけやっていればいいのではありません。
勉強は自分の好きなことをしていいという学問の自由がありますが、
そこで得た知恵は社会のどこかで換言する努力をしなきゃいけないと思います。
もちろん、怠惰な人っているのですが、
ましてや医学部に行こうと思っている人や何か便利なものを創ろうって思っている人、
そしてエリートになろうっていう人が怠惰なままでいいのでしょうか。
つまり、僕が言いたいのは浪人してまでものうのうと休憩室でchatteringしていたり、
わいわいしていたり、謎の密会しているのはどうなんでしょうかってことですね。
大手予備校にいくとそれが顕著だよなって最近思います。
(東京のある予備校を見学させてもらったときに
たばこをぷかぷか吹かせて30分もいるやつを見て、殴ってやりたかったです。
これを親が知ったらどうなるのでしょうかね…)
でも、考えていることが違うと言語が一緒でも意味合いは
一気に歪曲して全く正反対にとられることもあるんですよね。
これを表現の自由ということができるのかもですが、
やはり社会的なことはどこか片隅にあって、
自分80%社会的に20%ぐらいは考えたほうがいいと思います。
要は、あとちょっとなので怠けている浪人生がもしいたら、勉強してください。