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2007-11-15 Thu 18:09
うーむ、実際に最後まで読む気にならなくて、途中で閉じてしまったんだけど、あんまり高尚なエッセイではなかったと思う。まず、文章の中で会話体が使われているところが気に食わなかった。確かに今の人々はこういうほうが分かりやすいんだろうし、筆者の気持ちがdirectにつかめるのかもしれないが、本にある味わいが完全になくなっている気もする。正直、下品だった。 んーあと、もう少し簡潔に書いて欲しい。けっこうグダグダで、三分の一でよかったかな。まあそれだけ書きたいことがあったんだろうけど。まあ内容に関しては特にないかな。でも、心が病んでいる人、もどかしい気持ちがある人、世間に不満がある人は共感できるものがあるのかもしれない。でも、私はこれがただの負け犬の遠吠えじゃないけど、ただ感情的に書きなぶっているだけな気がした。今の私にこういうのは必要ないかな。好む人もいるんだろうけど、私は好きじゃなかった。 |
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2007-11-12 Mon 00:46
この本をとった理由は、新潮文庫の100冊に選ばれていたからというだけ。実際に梨木香歩を知らなかったしね。だから、どんな小説を書くかわからないまま、手探り状態で読んでいた。でも、これがちょっと面白かった。なんとなく、現代の中学生が抱えている問題を、イギリス的に解決するっていうようなことじゃないけど、当たり前のことが当たり前にできなくなっているところを指摘しているところなんて、作者が児童文学をやっていたようなので、うまく小説に出ているのではなかろうか。単調に見えて、単調なんだけど、それだけのコメントでは片付けられないと思う。 そんなことより、魔女って本当にいたのかな〜。魔女狩りしてた時代に行ってみたい気もする。 |
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2007-11-11 Sun 14:49
この本はアメリカやドイツでベストセラーになった作品。作者は法律学の教授で、その余白の時間で小説を書いたのに、これだけのものを書けるのはすごいと思う。36歳と15歳の恋愛をちょっと偏愛な気もすると感じた1章は、あくまでも2章の内容を引き立たせるものにすぎない。ハンナがナチスドイツの戦犯として起訴されて、重罰をうけることになっているのを、大学生になってゼミのためにその裁判を傍聴する彼の気持ちはいかがなものだろうか。もし私だったらとても耐えられないものであろう。しかし、彼はその彼女の刑の服役を待ち、再び再会しようというところがいかにもドイツ人的な忍耐力を感じたし、彼らの不屈の恋愛を見せ付けられた感じになった。 人を愛すと、自分は相手に自分自身を与え、自分の犠牲を払うものである。だから、「君のためなら死ねる」というようなI love youの訳は、こんな贈与論からうまれたのだろう。この小説の人間関係は、まさにそのような異常なほどの感情を吾々に紹介してくれた小説の1つなのかもね。 |
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2007-11-03 Sat 21:25
高村光太郎の詩は、深い。高村光太郎の詩では、「道程」っていうのが好きだけど、この智恵子抄にある愛の詩もいいね。去年の今頃、英語で詩を書く授業に出ていたのを思い出したので、手にとってみた。やっぱ日本語の詩には、かなわないでしょ! |
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2007-10-31 Wed 22:14
唯川恵と江国香織は、私の中では「女の観念」から書く恋愛小説家と認識している。超女女している。そんな作品が多いが、やっぱ今回もそんな感じ。ただこの「ため息の時間」はただの恋愛小説とはいえないかも。ちょっとした社会的にありえそうな問題のさなかにいるような内容があれば、偏愛というか性癖が絡んだ内容もあった。読んでいて、字の中にこめられている力はあまりないが、内容は「世にも奇妙な物語」を見ているようだった。スリルがあった(笑) 「言い分」っていうのは、面白かった。内容はしょうもない。ただ2人の女性が互いの悪口をある共通の男に言っているだけ。でも、それがなんか面白い。「女って、所詮こんなやり取りしかしないんだろうなー」っていう気になるんだけど、男の性じゃないけど、その実態を知りたくなる、みたいな(笑)そして、男はこのジレンマに混同するんだよなーっていうのが、ストレートに出てて分かりやすかった。 他にも面白いものがいくつかある。短いショートノベルが7つぐらいあるので、区切りよく読めるし、読みやすいかも。 |
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2007-10-30 Tue 22:59
まあニュートンとか著名な数学者の生い立ちの羅列かな。面白いけど、何かに欠ける。でも、雑学としてはいいかな。根をつめて読むものではなかった。数学に関わりがあるとか、学者になりたいなーって思っている人は息抜きにいいかも。私としては、この人は、「国家の品格」とかみたいに日本や英語教育とかを語っているほうが似合う気がする。 文章を書くという点では結構卓越していると思う。ボキャブラリーは豊富ですよね…。 |
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2007-10-26 Fri 15:44
太宰治の傑作のひとつ。彼の考えが全開に表されている内容。 もともと貴族だったかず子とその母。彼女達は戦後どんどん貧しくなっていく。そして、かず子の弟である直治は、麻薬中毒で貴族であることを憎みながら、庶民の生活に落ちぶれたいと思いながら生きる。そして、その弟の師匠的存在である作家上原。後に、かず子は彼に彼の子供を欲しがり接近する。この本では、4人の美しい「破滅」を映し出そうとする。そして、その破滅することで、初めて新しいものが見えるということを示唆させる。 本の中で、「人間はみな同じだ」という言葉に対して、直治の遺書にこんなくだりがある。 「この言葉は実にわいせつで、不気味で人は互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定され、美貌は汚され、光栄は引きずりおろとされ、いわゆる「世紀の不安」は、この不思議な一語から始まっている」 マルキシズムは、人間の平等を唱えているようだが、労働者が優越感を手に入れられるということから、平等とは程遠いものである。民主主義は、個人の主張を尊重するから、この言葉に反しているといえる。 私はこの「同じ」という言葉がとても気に入らない。スウェーデンから帰ってきたときに、日本の電車に乗って最初に思ったことは、どの人も同じバッグを持って、同じような服装で、同じような髪型をしていて、同じ色の髪をしていることに、嘔吐しそうになった。 これは、完全に凶暴化を失ったライオンのようなもので、人間としての価値がなくなりつつあるのではないのかという危機感に襲われた。学校では、受験勉強のために塾に行って、真の勉強の楽しさを知らずに、ただ大学に行くとか高校に行く、いや…いかなければいけないというような強迫観念みたいなものを押し付けて、生徒は拘束される。社会では、例えば、幼児が人前で大泣きして、なかなか泣き止まないときに、ものすごく叱られる。しかし、その真意には、しつけという前に、自分の羞恥心を隠すことを先行していることが、最近では多く見られるのではないか。恥をかくこと=最悪な出来事。だから、人前で話すことが苦手な日本人は多い。 つまり、自分が思っていること、ためているもの、それは喜怒哀楽なのかもしれないが、それらが上手にput outできないことから、あらゆる問題が生じている。 今の世の中では、「人間はみな同じである」という言葉は、「『同じ』でなければいけない。」と代弁しているのではないか。 それが実は、吾々に見えないプレッシャーを与えているのではないか。 それを感じるのは、私が人と話すとき。 飲み会に行って話す内容といえば、男だったら、車か、女か、仕事の話が相場。少し志が高い人間と飲んで話すと、人生設計の話が出てくる。それは健全に見えるかもしれないが、そうでもない。その会話は、所詮社会の限界の範疇内での未来しか語らない。これは、完全に「同じ」=「正しい」ということが植えつけられている上での言葉にすぎない。だから、よほどの人間でないと、話した気にならないし、自分が生きている意義を感じない。日本にいると、今は自分が社会に反していて、どうして生きているのかということを自問自答をして悲しくなるくらいである。 そのことが直治の遺書に書かれていたような、努力や幸福は否定され、一般論といわれたものと外れた思想を抱くと、嫌悪されるて死にたくなってしまう思想に行き着くのは、ものすごく共感を持った。 しかし、このような平等主義がはびこってしまった今、解決策としてはやはりこの本の主題である美しい「破滅」ではなかろうかと考えた。 かず子は上原との子供を身ごもったときに、「とても幸せになった」といった。上原は女房もいるし、今の思想からしたら不倫だし、倫理的に反するといわれてしまうかもしれないが、彼女の母を失って、これからより貧しくなってよりどころを失った中で、生活においての宝である子供を手に入れたときは、不幸中の幸いではないが、彼女にとっては喜ばしいことなのではないか。貴族から、人の夫にパラサイトするほど成り下がったが、彼女にとっては革命であって、戦争や政治が存在するのは当然なのだということを身をもって教えたと、いえるかもしれない。 太宰は、もともとこのような「破滅」に憧れをもっていたというか、そういう運命なんだと気づいていたらしい。青森の大地主で、他人よりも身分が高いことで、自分は他の家から搾取してなりあがったことから悩んだり、6男坊として生を受けて、父からは見放されたことで、長男のように偽善的な礼儀正しさを振舞わず、自分が思う主観的に正しいことを目指して生きて行こうとした。その結果、この「破滅」が、われわれがいかに偽善者として生きているかを、またわれわれに新しいものを与えてくれると、彼は示唆した。 すげー考えさせられた本。 |
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2007-10-19 Fri 21:09
この本では、筒井康隆の独断と偏見がたくさん詰まっている。例えば、O・ヘンリーについての説明では、「どうしても原稿用紙10枚未満しかかけなかった作家」というように書いていて、ブラックユーモアがけっこう詰め込まれていて面白い。あと、作家のなり方も興味深い。私は運よければ、作家でご飯が食べれるそうです(笑) |
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2007-10-15 Mon 03:15
あーこの小説は10分読んで、ばかばかしくなった。女の視点で書かれた官能小説なだけだろう…。展開が大体分かってしまってつまらなかった。最悪…。こういうものが世に現れるから、性の氾濫とかが起こるんだよ、きっと。 |
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2007-10-13 Sat 03:11
江國 香織が執筆作品の中で最も「危険な」作品と評したもの。 内容は、草子とその母の日常生活から紡がれている。母は自分が好きだった「あのひと」が見つけ出すことを望んで、街になじむことを拒み、すぐに引っ越して、あのとき好きになってしまった「あのひと」との距離感をできるだけ保とうとした。一方、草子はそんな生き方をしている彼女に、歳月がたてばたつほど違和感を持ち始める。というような話。 正直、うすっぺらい内容だかな。どうも江國香織が書くものは女女していて、私にはそぐわない。というか、共感がわかないのだ。じゃあなぜ読んだのかといわれると、単純に新潮文庫の推薦図書の100冊にあったからだという理由しかうかばない。「冷静と情熱のあいだ」を読んだときもそうだ。辻仁成が書いたほうは共感できて面白いと思えたが、江國香織の書いたRossoのほうは、どうしてこんなに体言止めが多くて、回りくどい感情表現をしたり、無駄な情景描写が多いんだろうとつくづく思いながら読んでいた。 今の売れている作家は、意味がない描写が多くて、その描写はただただ字数を増やしているだけだろうっていう人が多い。とても効果的じゃない。しかし、女性が書くものって、そういうものかのかもしれないと最近いろいろ読んで思った。吉本ばななの作品も異様に描写が多い。どうしてここで「コーヒー」の音がででこなきゃいけないの?みたいなね。心情描写に乏しいかな。字で表現するのはどれだけ難しいことなんだかってのを少し思わせてくれた。 だから、この小説で思ったことは、草子の精神は当然で、ただその母が狂っているだけにすぎないのではないかということで結論できてしまう。「どうしてここまで「あのひと」という人間に固執して、こういうものなんだ」という過程や展開がほとんど書かれていないから、売れているとはいえ所詮は通俗小説の一種に数えられるのかな。 |
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2007-10-10 Wed 18:34
安倍公房の世界的な文学になった作品。高校のとき、「赤い繭」ってのを書いた覚えがある。 内容は、教師である男が、教師の生活に退屈してしまって、休暇をとって、趣味の昆虫採集をしにいく。場所は、砂丘。そして、新種のハエの一種をみつける。しかし、捕まえられなくて、そこに泊まることを選ぶ。そして、そこである老人に出会い、泊めてもらう。しかし、連れて行ってもらった場所は、穴の中で、砂でまみれていた。そして、そこである女性に世話してもらう。次の日に昆虫採集を再開しようとして、はしごを昇ろうとしたが、はしごがなくて、女に問うてみる。すると、黙ってしまい、その類の答えはすべて黙秘した。つまり、砂の部落に閉じ込められたのである。その間、いろいろ脱出する手立てを考えるが、なかなかうまくいかない。すると、その中で女性に対して発情して、欲求不満を晴らしてしまうのである。しかし、そんな間柄になっても、この生活には耐え切れず、脱出を考える。そして、ある日、穴から出られたのだが、底なし砂に填まってしまい、助けてもらう羽目になり、また逆戻りしてしまう。絶望などが渦巻くが、だんだん諦めも出てきたのか、女に対しての情がうまれたのか、結局そこで、ずっと暮らしてしまう。そこで話は終わる。 まあすごい話だった。今の世の中をうまく風刺しているなと思わされた。 |
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2007-09-30 Sun 23:22
この内容やばかったですね。映画がヒットするのも納得でした。内容は、薫という女性が浩介という建築士志望の男とであって、結婚にまで至るのだが、薫がアルツハイマー病になって、彼女の中から彼の記憶がなくなっていくのを描く。それがすべて、薫の簡単な日記形式で書かれている。そのあとに、語り手が変わって、今度は浩介が語り役になって、彼女が失踪してからのことを書く。彼女は完全に彼のことを完全にわすれてしまっているのだが、彼らの愛が永遠であることを互いに認識する。ここで話は終わる。 悲しいアンチクライマックス的な内容であるが、精神的にはハッピーエンドでおわっているところが、けっこう文学的で美しかった。現代小説としてはできがいいのではないだろうか。なんといったって、日記調で語られていることで臨場感が増すし、日常的で読者も溶け込みやすい。なんとなく、「電車男」のようなドキドキ感がある。あれは本当に現代の産物をうまく小説化してしまっているが…。 今年読んだ恋愛小説の中でも、ベスト10には入る。 |
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2007-09-29 Sat 18:49
吉本ばななの小説をはじめて読んだわけだが、「言うほどいい作品か?」って言うのが本音。近代文学が素晴らしいと思う私にとって、現代文学はただ美しいだけで、その言葉の中に、社会情勢やそれに見合った人間の感情の対比が分かりづらかった。確かに読んでいて、女性の感情や、人が亡くなった痛みや苦しみはうまく伝えられているし、同情っていう気持ちで文章が読めるが、そこまでである。考えるっていうところに欠ける気がする。正直、江国香織とかのような一般的にうけそうな大衆小説にすぎないかな…。 |
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2007-09-28 Fri 00:52
松田聖子が主演の映画にもなった作品…らしい。矢切の川渡しの場所で起こった話。まあこの作品も哀が詰め込まれた恋愛小説。17歳の民子と15歳の政夫の恋愛に、世間の人々や姉嫁が常識や形式や慣習というものを基にして邪魔をする。政夫は結局15になってから市川の中学に通わなければならず、彼女とは離れ離れになる。その間に、民子は姉嫁や政夫の母からたくさんの小言を言われ、結婚を断念し、他の家に嫁いでいく。しかし、彼女の中で潔しとせず、次第に弱っていく。やがて、息を引きってしまう。その知らせをもらった政夫は、早急に家に戻ってみると、母は泣き崩れて、半狂人となって自分自身を責めたてていた。彼は、民子の家に行き墓に向かって初めて、彼女の本当の意味での死を感じ、あからさまに泣き崩れてしまう。 明治時代の恋愛は、周知の通り、慣習的で恋愛で成就するほうがまれなほどであった。女性の不自由さが大いに書き出されている。そして、当時の女性はとても忍耐が強いんだというのがよくわかる。このようなものを読むと、女性の権利はもう少し自由にしてあげたくなるかなって思うものである。 この小説は、確かに面白いほうだとは思うけど、今まで読んできたものよりも純粋文学だった。社会情勢や当時の風潮の描写が少なく、私としては少し物足りなかった。むしろ現代の恋愛小説に近いものを感じる。だから、今の時代にもうけてるのかもしれないが…。 |
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2007-09-26 Wed 12:58
九州の付属病院でのアメリカ人の捕虜の生体解剖事件について書かれたもの。それを通じて、罪の意識、呵責について考えさせられるものであった。 生体解剖に携わった人間のなかに、勝呂と戸田という同僚同士がいたのだが、二人の態度は対照的だった。勝呂は、生体解剖を断るチャンスはあったにもかかわらず、煮えきれない返事をしてしまったがために、実際に生体解剖の場所に現れると、自分自身に大きな罪があるんだという自責の念を持ってしまう。 一方、戸田はこれは「自分は悪くないんだ。怖いのは社会からの罰だけだ」と、少年時代から悪いことをしているという感覚がない人間であるんだということを回想し、この解剖に関しても無感動とはいかないまでも、そこまで大きな自責をもっていなかった。悪いのはすべて、このように誰でも死んでしまう時代である社会背景がいけないんだといいだげにいた。 自責の念というのは、どこから始まって、どこで終わるかなんて決まっていなければ、セオリーもない。自分の裁量に任される世界だと思う。勝呂は、その裁量について、間違ってしまった人間で、この先ずっと自分を責めて生きる。だから、病院で変人扱いされてしまう反面、悲しい過去を背負いながら生きていかないという辛辣な現実が待っている道を辿っているのである。しかし、「間違っている」っていうのは、社会的な視点からみたからであり、精神的には決して間違っているわけではないと思う。 ボルヘスは、「広島・長崎に落とされた原子爆弾で死んだ人と病気で死んだ人は、死んだ時間が違うだけでなんの変わりもない」というようなことを言っていた。これは、社会的な目を考えたら、元防衛大臣の久間さんのように非難されてしまうが、精神的観点からしたら決して間違っていない。だから、この裁量も人間の見方によっては、事件もすべて変わってしまうことがよく分かった。 これは、今の裁判の判決も同じようなことがいえる。無罪だった事件がいきなり有罪になってしまう逆転判決は、最近多く見られる。はっきり言って、こんな風に全く正反対になるのは少しおかしいようにも見えるが、やはりそれはどちらかの判決のときに情が入っていて、objectiveな判断がなされてなかった結果かと思う。 医者や法曹家はこういう裁量について重く考えて仕事をしてもらいたいと願うまでだ。そのようなことをこの本から感じた。 |
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2007-09-24 Mon 00:23
彼の恋愛作品の第3部目の「愛と死」。「お目出度き人」と「友情」があって、この作品があるというくらいである。そして、これが自伝的小説だというところがまたすごい。こんな奇跡に近い恋愛をしている(してないかもしれないが)作者武者小路実篤はとても運の良い男である。しかし、内容は哀愁漂うものばかり。「悲愛」というべきか。「愛と死」では、愛の悲しみが100%こめられて吾々にメッセージを送っている。 内容は、村岡という男が、その友人である野々村の妹である夏子に恋をしてしまうというのが始まり。キッカケは、謎の余興のとき。村岡は芸がないので、余興をしたくないと拒んで、そのかわりに夏子が宙返りを披露してその場を拍手喝采にしたことで、彼は彼女に対して慈悲の心が生まれ、恋に焦がれてしまう。そして、彼女もだんだんそれに惹かれてきてしまう。2人は結婚の約束をする仲にまでなる。しかし、村岡は巴里に旅行にいくといい、半年の間渡欧を決意する。二人は離れ離れに。しかし、彼らは手紙のやりとりを頻繁に行い、互いの寂しさを紛らわすことに勤しむ。しかし、彼の帰りの船の中で、夏子の急死を聞き、絶望の淵に落とされる。彼は悲しさのあまり泣いて泣いてなきぬく。日本に到着しても彼女に対して悲しみの念を覚え、兄である野々村に気持ちを伝える。しかし、村岡はその悲しみを乗り越えるべく、彼の帰国歓迎会を野々村の家でやることに同意し、悲しみと立ち向かう。このことが、回想的に書かれている。 私はあらゆる恋愛小説を読んできた。特に心に残っているのは、新堂冬樹が書いた「忘れ雪」とか、一斉風靡した「世界の中心で愛を叫ぶ」だとかが思い浮かぶ。どれも傑作といえるものだが、実際にそのような現代の恋愛小説があるのは、この小説があるからなのではないかと思う。それくらいこの小説はインパクトがあると思う…時代が時代だから。この作品は戦時中に発表されたものだから、作者自身にも死別の別れとかが本人になかったにしても、そういう事実に遭遇するには難くなかったのかと思う。このところから、彼の青春文学の味を感じざるをえない。現代の恋愛小説とは、愛の重みが違った。 それは、文章の内容からも見受けられる。特に、村岡が渡航してからの2人の手紙のやりとりから。あんな文面に愛情たっぷりな手紙は見たこともないし、書いたこともない。今は昔と違って、メールはあるし、いつでもどこでも自分達が思うとおりに気持ちを伝えることができてしまう。この利便性が、私達の恋愛感情の希薄性を生んだり、純愛から遠のいてしまう気がする。手紙が来ないかな〜っていう、わくわくする気持ちと来なかったらどうしようという焦燥感が手紙の間にあるから、私は純愛が成就し、あそこまで互いの愛を深められるんだと思った。あそこまで人を愛せることは、私の理想の恋愛像になった。なんて美しいんだろうか。 しかし、順風満帆にいっていたものをすべて壊してしまう無常観を著したところも、注意しなければならない。私達は人生の間挟まれている「恋愛」とは、人生が素晴らしいものになるための、一種の歯車同士の間に生まれる隙間的役割を果たしているものだと思う。作者武者小路実篤も「恋愛はなくてはならないもの」と述べている。しかし、恋愛は所詮人間の人生に組み込まれているものであって、いつかは終わりが来るんだという現実をぶつけている。恋愛のよさと厳しさがうまく調和していて、私は内容的にとても感銘を受けた。 これ以上のことは、別のところで語ることにする。 |
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2007-09-21 Fri 22:01
小沢征爾の自伝ね。目隠しをして、さらに部屋を暗くしても寸分の狂いもない演奏ができると噂される彼の人生は、日本人にまれに見る偉人たる人生だった。 スクーターでヨーロッパを渡っていくなんて誰が考えるだろうか。しかも、音楽の世界を生きるために。さらに、当時では想像を絶する国際指揮者コンクールに参加するなんて…。そう思う反面、彼は人脈に恵まれていたし、金銭的に恵まれていたのがよくわかる。戦前に生まれた人間で、大学まで出るのはやはり裕福な証拠といえる。私からしたら、できて当たり前だとは言えないが、心の負担は多少軽かったようにも思える。しかし、当時で日本人が音楽の世界で名を馳せるのは至難の業であるから、そういう点では評価できると思う。 私もこれから、世界の荒波に揉まれて、偉人のような人生を送り、自分が納得の行く人生を送っていきたい。私にとって、日本で生きるには時の流れがはやすぎる。そして、すべての人間にマスコミのごとく冷淡な目をし、でっちあげて冷笑されたりり、酷評されたりする世界に見えてならない。日本以外がそうではないとはもちろん言いがたいが、少なくとも個人主義が発達しているヨーロッパで、マスコミのようなextraordinateな視線は感じにくい。孤独を好む私にとっては、最適な場所だ。 そんなヨーロッパを駆け巡った小沢征爾を、少し羨ましく思った。また、この人のようにバイタリティーに満ちた人間になろうと思った。彼が本の中で「体を鍛えることは重要だ」といっていた。私は、彼はボンボンのもやしっこで温室育ちした音楽家だと思っていたので、こんなことをいうなんてと、少しあっけに取られた。少しぐらいのずうずうしさとエネルギーがないと人間には上にはいけない。小沢征爾の生き方に少しだけ感銘を受けた。 |
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2007-09-20 Thu 00:54
芥川龍之介の初期の作品。「鼻」のほかに、「羅生門」なども同時に「新思潮」に出している。 内容はとっても短い。内供の鼻が天狗の如く長く、弟子におさえてもらわないと食事もままならないくらいにでかい。そのことことに、内供は悩む。そして、周りの目を気にする。しかし、ある日、ある弟子が大陸から鼻が萎縮する術を手に入れて、それを試そうとする。その術とは、鼻を熱湯につけて、そのあとに、踏むというもの。内供は実際にそれを試みた。その結果、誠に彼の鼻は萎縮し、鍵鼻と同等なくらいにまでなった。しかし、長い鼻に見慣れていた周りの人々は、鼻が短くなったのを見て、さらに笑いをこらえられなくなった。この事態に、彼は、「人とはエゴに満ちている」と悟り、結局また鼻はある病気で元に戻り、そのおかげで彼の自尊心は保たれた。 芥川の初期の作品は、宇治拾遺物語などの古典をモチーフにしたものが多い。これは、岩波新書の「芥川龍之介」という本の中で、彼の育ての親(おば)が彼の幼少時代に本を読ませて、聞かせてあげたことで、彼の知性の源は、この読書にあると述べている。だがら初期の作品は結構読みづらいが、趣深くも思える。 そして、この内容の真意である「人間のエゴ(利己主義)」をうまく書いている作品である。 |
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2007-09-19 Wed 00:47
武者小路実篤の「お目出度き人」、「友情」、「愛と死」といったら、彼の中での3大恋愛小説であろう。私は、そのなかの「友情」を手に取ったわけだが、こんなに文芸小説が面白いと思った作品はなかった。 内容はそう複雑なものではない。野島という新鋭作家と、その親友の大宮の友情と恋愛の話。野島は、彼の友達の仲田の妹の杉子に恋してしまって、大宮に相談する。大宮はその彼女を知っていた。野島の相談を聞いて、彼は快くバックアップをしようとする。そして、彼の従妹の武子を利用して(彼女と杉子は友達同士)、杉子に接近し距離を縮めていく。ピンポンをしたり、別荘に行ったり、海水浴をしたりして…。しかし、大宮が海外に行くときに、杉子が野島に見せたこともない表情をしていることに野島が気づき、自分が愛されていないことを感づく。後に、大宮が巴里に行ってから、杉子は手紙を出す。恋文を。そして、大宮は彼女に「野島をかばうのは、友情を重きにおいているからだ」と言われ、見抜かれてしまう。そして、大宮は野島宛に小説を書き、自分の気持ちと彼女の気持ちを打ち明けた手紙を書く。その手紙を見た野島は、仕事上で「宣戦布告」することを誓い、話は終わる。 この本を読んで、私はものすごく「野島」の心持と似ている境遇に出くわしたことがある。というか、私の今までの恋愛は、まさに「野島」のような恋愛だったのかもしれないと、彼の心持を私自身に投影してみた。 かつて、私は大学一年のときに、杉子のような女性に出会った。私が出会った女性は、容姿端麗で、音楽の才女。しかし、笑うととても無邪気で、誰からも愛されそうな交際家。私は、彼女を見た瞬間に、恋に落ちたといわざるを得ない。しかし、私はその恋に焦り、成就しなかった。彼女は、私のことを尊敬しているといったが、私のことを好きだとは言わなかった。当時の私にとって、尊敬されることは、好きだと思われることと同等に思い、私の価値観では好きな部類に属すると考えていた。しかし、この失敗から、それは全くの誤解だということに気づき、随分その事実を受け入れられなかった。もしかしたら、今の私でさえもそうかもしれない。少なくとも今の私は、昔の私よりも進化し、知恵をつけたつもりだが、この観念に対しての否定は、受け入れがたいものだ。 そして、私はこの恋に急いだ理由は、私自身が何かをやらなくてはいけないという、そして、受験勉強を終えて、目標を見失った当時の私にとって、目標がなかったことに恐怖し、彼女を得ることと、目標を探すことを天秤にかけてしまったからである。そして、私が選んだ答えは、目標を探すためには、一秒でも早く、色事を成就させる必要があるということ。今となって分かることだが、それに結びつけ、恋愛感情を軽視したことが私にとって最大の失敗点だと考える。 しかし、この失敗は私にとって、大きな失敗だった半面、大きなものを得た。私は、「野島」の如く、悲しき孤独な獅子となることができた。そして、これからもそれを貫き通し、私は私を脅かすもの、私が私でないかもしれないと思わせるようなものを排除していくつもりである。 私は、これは世界の秩序やモラルに反していて、大抵の人間には受け入れがたいものだと思う。 しかし、この本を読んでいて、大衆文化が流行りだして俗な社会になろうとしていた時代を生きた武者小路実篤は、彼のような生き方もあるんだと肯定しているようにも見えた。 「恋をして、成功して成就し強くなる者もいれば、恋に破れて、その逆境に耐えて、強くなる者もいる」 彼は私に生きる知己を与えてくれた。そして、恋愛は人生において美であることを教えてくれた。彼の小説には、当時の日本情勢が容易に把握することができる。腐敗してきた日本を救うべく、思想を重要視する点を強調し、野島に対して、希望をこめてそれを最大限表現したようにも見える。そして、そういう人間も必要であることを示すことで、われわれに生きる強さを教えてくれたと考える。 私は大人っぽい「大宮」よりも、癇癪をおこしやすい「野島」のような生き方のほうに共感がわく。「野島」は理想の女性像に、「自分自身が前進し続けても、寂しいときにはそばにいてくれるということ」を挙げていた。これは、反面彼のエゴイスティックな気持ちも見受けられるが、こういう風に生きずにはいられない人間もいるんだと思う。 ときに私もこんな女性がいたら、どれだけ仕合わせな気持ちでいられるかと思う…。 しかし、私はやはり「孤独な獅子」だ。 |
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2007-09-17 Mon 01:10
この本を読んで、初めて私の思うような悩みを抱えている人間がいるんだということに気づいた。もし太宰治が私と同じ世代の人間であったら、必ず友達となっていたことだろう。たとえ同世代でなくて、ひと世代上の人間であったとしても、彼のことを師事したことだろう。私は太宰治の教義にものすごい感銘をうけた。 彼の文学は確かに暗いし、それがゆえにキライだという読者も多いかと思う。全くといっていいほど評価しない文芸評論家もいる。太宰の社会批判の準備段階として、「社会は、自分自身を自己破壊・自己批判をして初めて批判することができるんだ」というようなことを述べている。そのイズムが、晩年の太宰であるのは想像に難くない。周知の事実だが、彼は自殺未遂を2回ほどしているのだから。 今回の「人間失格」の中で展開されている葉蔵の姿は、まぎれもなく太宰本人を映し出していることに他ならない。彼の姿は、小さいころから自分の意見は言えず、引っ込み思案の少年で、常に自分自身が悪いんだと思うくらいのネガティブっぷりをみせる。しかし、それを隠すために彼は他人の前では道化る。つまり、本性を見せもしなければ、感づかせようともさせない。それを感づく人間が2人存在したようで、彼はそれにおびえて人生を送っていた。 私も同じような性をもっている。彼ほど、ネガティブだとは思わないが、私はずっと自分ができると思っていても、他人に冷やかされるだけだとか、バカにされるのが怖くて、自分の思っていることを口にはしない。私の口にすることは、大抵は理想論か願望である。だから、よく私の言うことは、「地に足が着いていない」とか「現実からあまりにもかけ離れている」といわれることが多い。だから、実際には私の腹の底を知るものは、現存している人々の中では間違いなくいない。私が最も中の良いと思う友人は2人いるが、その人間たちでさえも私の腹の底は見せた覚えはない。つまり、私の口から出るのは誠ではなくて、すべて虚偽。アリストテレスが言った、「書いたものはすべて虚偽である」というのはあながち正しいのかもしれない。彼はまた「人間は政治的生物である」とも言っているが、この駆け引きは近からず遠からずの名文句ではなかろうか。 こういうことから、私は同じものを感じるといわざるを得ない。もちろん、私は太宰よりもはるかに稚拙で、愚かな人間だと自覚しているが、そんな私でも、彼の微々たる感受性と節目節目に漏らした彼の気持ちの吐露を感じることができたと思う。 彼のピエロのような行動は結局破綻してしまい、その逃げ場として彼が選んだのは、女だった。そして、女に狂って、溺れて、破滅への道を辿る。「自己破壊」へのファンファーレを鳴らしたのである。最終的に、薬漬けになって、脳病院というところに連れて行かれ、彼は自分自身に「人間失格」という風に捺印する。狂人となった瞬間。彼は初めて我を悟り、世界を悟った。 かつて1967年に解禁された「まぼろしの市街戦」という映画で、反戦をモチーフにしたシーンがある。2つの町の軍隊が相対峙するシーン。ある2つの町がにらみ合いを続け、結局戦車で互いを殺し、互いに死を分かち合って、精神病患者は開放されて、戦争を起こさない精神病患者こそ正しい人間だといいたいが如く、戦争とはとても愚かな行いなんだということをしろしめた内容だった。 太宰の「人間失格」の構想は、おそらく戦後にねられたもので、すべてを失った第二次世界大戦後の日本人にとっては、彼のいうものは、誠に見えたんだと思う。そして、これしか誠に見えないくらい、日本人の心は頽廃していたはずである。つまり、この戦後の「人間失格」ブームが、日本人に社会がだめだったんだ、世界がダメだったんだというような批判の火付け役となったのではなかろうか、と私は考える。 そして、この太宰に目をつけた私にとって、今の社会は「頽廃」を越えた頽廃を迎えるのではないかという思想は、私を眠らせなくするのは言うまでもない。しかし、同時に、私の自己破壊もつづいていると思うと、少し哀しくなる。 |
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